月刊・お好み書き 2009年5月号（1990年3月創刊／通巻230号）
文・庄村有治
98年７月に発生した和歌山カレー事件。犯人とされる林真須美被告の死刑が確定した。
最高裁は４月21日、一審二審の死刑判決を支持し、被告の上告を棄却した。これによって真須美被告は「真須美死刑囚」となる。
私はこの事件の発生直後から現場となった和歌山市園部地区へ取材に入り、容疑者の逮捕後も裁判の傍聴を続けている。遺族の人たちからも涙ながらに話を聞き、いまも後遺症に悩む被害者の方々とも交流がある。11年間、ずっと経過を見守ってきた。
主婦Ａさんの場合、ヒ素の後遺症だと思われる症状が、事件から３〜４年後に現れた。Ａさんの両手、両足の爪は割れ、細かいヒビなどが入りはじめたのだ。その症状は今も消えていない。Ａさんを診察したヒ素中毒の専門医は「ヒ素の後遺症である可能性も否定できない」としているのだ。
Ａさん以外にも、似たような症状が出ている人がいるとも聞いている。また、ここまで顕著でなくても、いまだにカレーを口に出来ない人もいる。被害に遭った人たちにとって、まだまだ事件は終わっていないのだ。
真須美死刑囚は最高裁の判決を受け「私はカレー毒物混入事件には全く関係していません。真犯人は別にいます」とコメントを寄せている。弁護団も最高裁では、真犯人説を訴えていた。
今回の最高裁判決を前にして弁護団は、事件の「真犯人」の存在を伺わせる上告趣意書を最高裁に提出していたのである。驚くことに、カレー鍋にヒ素を入れたのは林真須美被告ではなく、別の人間が入れた可能性がある、というのだ。
弁護団の主張はこうだ。まず、カレー事件の背景には「地域住民の間で対立」があると指摘する。具体的に述べるなら、ある家族が別の家族に対して、商売上のことで感情的なシコリを持っており、それが次第にエスカレートしたというのだ。
その根拠の一例として、弁護団は住民から聴取した声を紹介している。
「彼女は、カレーを食べたと言ってたけど、Ｍ外科（注・趣意書では実名）では、ぴんぴんしていた。彼女は、他の病院に移ってからはその後は分からないけど、一人だけ異様だった。警察もマークしていたみたいだ」
「林真須美さんが犯人だとは思わない。そのように思っている住民も他にいる」といった具合である。
またカレー事件の以前に、対立する一方の家族が飼っていた犬が毒殺されたり、ボヤ騒ぎがあったりと、地域内で何やら不可解な事件が起こっていることも紹介。結局、「真犯人」がヒ素を混入した動機は、対立する住民への嫌がらせだとしているのだ。
さらに真須美被告の手書きノートも証拠として提出。ノートには「事件当日、カレーの作ったガレージ付近とテント内でＴとＢ（注・ノートでは実名）との姿が２〜３回目げきされている」（原文ママ）と、Ｂさんが真犯人だと言わんばかりに、名指ししているのである。
趣意書では一応、真犯人を「彼女」と匿名扱いしているが、真須美被告の実名記述と合わせると、ほぼ特定しているに等しい。
その上告趣意書で、まるで「真犯人」であるかのような扱いを受けたのが、Ｂさんである。Ｂさんは怒りを込めて私にこう打ち明けてくれた。
「上告の内容は新聞記者から聞きました。『まさか！』と思う一方、そんなワケないやろうという怒りが沸いてきました。何の恨みがあって私を犯人扱いするのか、まったく理解に苦しみます」
「上告趣意書を読んでみても、間違いだらけ。趣意書には、かつて私が臨床試薬の会社に勤めていたのでヒ素の入手も可能だったかのように記しているのですが、実際に勤務していたのは臨床検査の会社で、病理細胞などの検体を集める仕事です。試薬を扱う会社ではないのに、どうやってヒ素を入手できるのでしょうか。また、私がカレーを食べて『病院でぴんぴんしていた』との地元住民の話を引用していますが、これは皆さんに心配をかけまいと気丈に振る舞っていただけのことです。早い段階で胃の中のカレーを吐いたこと、当時は若くて体力もあったので、たぶん回復も早かったのです。一事が万事こんな調子で、もう怒るというより呆れてしまいますよ」
そもそもＢさんはヒ素など入手できない。趣意書ではＢさんが臨床試薬の会社に勤務していたこと、かつてＢさんがシロアリ駆除業者に依頼したことを挙げ、ヒ素入手の可能性に触れている。だが、Ｂさんが勤務していたのは臨床検査の会社である。ここでヒ素の入手は無理だ。また、シロアリ駆除業者に依頼したことがヒ素所有の根拠なら、依頼経験者は全員、ヒ素を持っていることになり、まるで荒唐無稽な話となる。そもそもＢさんはヒ素など持っておらず、入手ルートもないのは、早い段階から和歌山県警もつかんでいたことだ。
私は取材を通じてＢさんと知り合い、彼女の性格も分かっている。Ｂさんが独自にヒ素を入手し、カレーに混入したなどという主張は最後の悪あがきに思えて仕方がない。
ただ、状況証拠だけで死刑にしてよいのかという弁護団の主張も理解できる。自白もないなら動機も不明。真須美死刑囚がカレー鍋にヒ素を入れたという直接の目撃証言もない。
最高裁で死刑が確定しても、この事件を追い続けた記者として、いまだに釈然としないのも事実なのだ。